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arc6号編集長論説

「カナリアが世界を変える」

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プラトンは、人間を統治するものとされるものに区別して考えていた。彼の理想の「国家」において、そのどちらでもないカナリア(芸術家)は不要のものであった。かくしてプラトンによって、カナリアは一度追放された。

プラトンの当時の人間観を、現在の私たちが一笑に付すことができないのは、時代が変わったとはいえ、現在も彼のように考える人びとが多いということだ。

つまり、「人間」という存在に対する議論は、神学論争か、哲学論争の囲いのなかで深められてきたものの、社会に関わる存在としての「人間」の捉え方そのものは、プラトン以来そう大きくは変わっていないということになる。

最近でもよく耳にする言葉に「大衆迎合主義」というのがある。この言葉ほど、プラトン以来変わっていない「人間観」を物語るものはない。

ここで「大衆」といわれる人々は愚かで、どうしょうもない人々である。ローマの時代から「飴とムチ」で支配されてきた人々である。

本来なら現在この世界で生きている私たちは、「民主主義国家を形成する選挙権を持った一人一人であり」、プラトンの時代の民衆とも、ローマ時代の大衆とも違うはずである。しかし、「大衆」として十把一絡げにされても誰も何も文句を言わないのはなぜであろう。自分を大衆と思っていないのか、それともどこかに居る「大衆」は少数であり、自分たちは権力者ではないが、大勢の国民と同じ良識的存在と考えているのであろうか。

プラトンは、「大衆」を啓蒙される存在と考えていた。つまり、規範を超えてワァワァ鳴くカナリア(志操下劣なアーティスト)によって、公徳心なり信仰心を失くし、猥雑で下劣なものに傾斜しやすい人びと。逆に言えば、プラトンのような高潔な思想家や、宗教家の影響の下にあれば、なんとか「まともな暮らし」を送れる人々である。つまり、プラトンは人間の中にある全体を容認できない。それは、彼の中で「国家」が優先していたからであり、個々の「人間」の全体ではない部分を彼の都合のよい「国家」を作るために、単なるモザイクとして利用したからではないのか。こういう「人間」の規定の仕方は、主軸が「国家」でなく「体系」になったとしても、西洋の哲学者、思想家によく見られる傾向である。

こうして、「大衆」は規定され、「そういうもの」として扱われてきた。

これでは、人間社会の変革なぞあろうはずがない。

「大衆」「普通の人」として「飴とムチ」で支配され、自らもそうであることが幸福であると錯覚させられてきた人々が変わらなくて、どうして世の中が変わるのか。

つまり、他の人々より感性が鋭く、論理以前に身体と脳細胞が時代の空気に反応するカナリアが先鞭をつけ、強くなることで人びとは別の生き方の可能性に目覚めることができる。

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